新川田篭地区

筑後吉井の白壁通りから続く国道210号線(旧筑後街道)を東に向かって進み,浮羽町で右に折れて県道106号線を上がった先に合所ダムがある。そのダム湖を越えると風景が一変し,郷愁を誘う山里が出現する。それが,新川田篭地区である。

地区の中心を筑後川の支流である隈上川が流れ,川筋に沿って棚田と集落が展開する。棚田は谷あいの斜面に石垣で形成されており,なかでも新川地区にある「つづら棚田」は, 150mの高低差がある起伏に富んだ地形に約300の田んぼが集まって独特の景観をつくりだしている。このつづら棚田は,平成11年に「日本棚田百選」に選定された。

新川田篭地区には100棟あまりの茅葺民家が残り,棚田とともにこの地区を特徴づける地域資源となっている。田篭にある平川家住宅は,福岡県で最初に国指定重要文化財となった民家で,3つの棟が並んだ美しい外観を持つ。母屋は棟をコの字に構成する「クド造り」である。全国的に知られた平川家住宅がクド造りであることから,それがこの地区の代表的な民家形式のように思われがちだが,実際にはこれ以外にクド造りの民家は存在しない。数としては寄棟の直屋が多くを占めるとともに,鍵屋,T字型,茅葺2階建などさまざまな形態が見られ,むしろそのような多様性がこの地区の特徴といえる。

民家のもうひとつの特徴が,屋根材として杉皮を使っていることである。現在は大半がトタンを被せてしまっているので外観からはわからないが,以前は多くが茅屋根の表層に杉皮を葺き込んでいた。杉皮葺きは屋根の耐久性を高めるためのもので,普及したのは近代になってからである。その背景には林業の発展があった。江戸時代に始まった浮羽の林業は,明治になって本格化し,戦後に最盛期を迎えた。そのため,山林の9割近くが人工林で,最も多く植えられたのが杉であった。

多くの山をもつ山主は,経営者として地域の経済を担うとともにしばしば行政上の有力者にもなった。県下有数の山主であった野上家は,江戸時代末期に竹の加工品「へぎ」細工を考案して財をなし,大規模な林業経営へと発展した。その住宅はこの地区随一の大きさを誇る民家で,床の間の墨書から安政3年(1856)築と推定されている。現在は屋根にトタンが被せてあるが,以前は杉皮葺きだったことがわかっている。

この地区には茅葺民家が数多く残り,棚田など周辺環境とともに歴史的景観をよく留めていることから,平成24年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。しかし,正式に選定が決まった直後に九州北部豪雨が発生し,石垣が崩れ、民家も土石流によって流されるなど甚大な被害を被った。その災害復旧と歴史保全,さらに日本の山村が共通に抱える過疎高齢化の問題に,住民と自治体とが一体となって取り組みつつある。(菊地成朋)

「歴史文化遺産 日本の町並み〈下巻〉」(紀行社,2016.3発行)より